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マット・ミラーさん

宿命

IMG_0177 戦後間もない長崎県佐世保市で、ある若い日本人の女性がアメリカ人兵士と出会い、恋に落ちた。やがて男性はアメリカへ帰国、残された女性はその男性の子を一人で出産した。生まれた男の子はジムと名付けられた。1947年のことである。

当時の日本では未婚の出産は珍しく、ましてや米兵との間に生まれた子どもに対する世間の偏見は強かった。ジムの母親は一度は別の男性と結婚したが、夫は彼女に暴力をふるい、血のつながりのない息子にも辛く当たった。暴力の恐怖と生活苦、そして羞恥に耐えられなくなった女性はやむなくジムを佐世保市の孤児院へ預け、姿を消した。ジムは1953年から1957年までの4年間、その孤児院で育てられた。そしてその後、アメリカ人の夫婦に養子として引き取られ、オレゴン州スキャプーゼへと渡る。日本に戻ることは二度となかった。

大人になったジムは、アメリカで結婚し家庭を持ち、子どもにも恵まれた。ある女性がジムを訪ねてきたのは、息子マットが17歳になったころだ。この女性は孤児院で幼いジムの世話をしていたミツトミ・エイコという日本人だった。エイコとジムは日本を離れて以降も互いに連絡を取り合っており、息子のマットが生後3ヶ月のときにも一度ジムを訪ねたことがあったらしい。当然マットの記憶には残っていないのだが。

エイコの訪問は、多感な年頃のマットに多くの疑問を抱かせた。なぜ父親は過去についてこれまで語ろうとしなかったのか。なぜ自分たちはゆかりのあるはずの日本について何も知らないのか。エイコの訪問以来、マットは自分の中で沸き起こった疑問を何年にも渡って胸に抱き続けた。 そして2005年、マットはついに行動を起こすことにした。

「父の過去が、今の父に対していかに大きな影響を与えているのか。そして、それがどのように私たち家族に反映されているのか、日本にある自分のルーツについて考えずにいられなかったんだ。」

マットはエイコに手紙を書き、訪問したいことを伝えた。エイコはそれに応え、その年の夏、マットは日本に渡り長崎県佐世保市を訪れた。エイコは孤児院があった場所にマットを案内し、そして父ジムのことを知る人々に彼を紹介して回った。

「日本から帰国するとき、僕の心は日本から離れられなかったんだ。日本という国に、日本の自然の美しさに、日本で暮らす人々にすっかり魅せられてしまっていた。電車で出会う見ず知らずの人々に『あら、あなたジムの息子なの!』と言われるたび、突然、日本に自分の家族ができたような気がして、愛おしく感じた。」

1年後、マットは外国語青年招致事業(JETプログラム)を通じて再び来日し、英語の指導助手として群馬に赴任した。赴任して2年が経ったころ、マットは父ジムにまつわる調査をしようと決意する。できれば実の祖母も見つけ出したい。マットは佐世保市に引っ越し、エイコのもとで暮らし始めた。そのころマットにとってエイコは、すでに家族同然だった。エイコの古い写真を整理し、50年にわたって彼女が携わってきた孤児院での活動を本にまとめるのを手伝った。2010年に調査を完了して東京に引っ越すつもりでいたので、転居する前に父の実母を探す協力を頼もうと市役所を訪れた。

市役所から連絡がきたのはそのその2日後だった。祖母に関わる書類を閲覧できることが知らされたのだ。ジムが再び市役所へ赴くと、1時間もしないうちに探していた情報が見つかった。祖母は生きていた。しかも市役所からわずか25分しか離れていない場所で暮らしていたのだ。喜び勇んで早速電話をしてみたものの、いたずらか詐欺かと思われて一方的に切られてしまった。

ところがその10分後、祖母から市役所に電話がかかってきた。あの電話がいたずらではなかったかもしれないと思ったのだ。もしかしたら本当に、本当に、ジムの息子である自分の孫が、祖母である自分を捜しているのではないかと。

その週の日曜日、とうとうマットは祖母の家を訪ね、祖母に対面した。そして、父を生み、父と別れた当時の話を聴くことができたのだ。祖母はマットに語った。息子ジムにはなんとしても生き延びてほしかったこと、少しでも楽な暮らしをさせたかったこと、そして我が子を手放なしたことは、一生消えない胸の大きな痛みとなったとを。今、目の前にいる孫のマットの存在は、息子ジムが人生を立派に生きてきたことの証だった。

「僕を通じて、祖母の心の重荷はついにとりのぞかれたのだと思うんだ。」

父ジムは、当初息子が日本へ行ったことを喜ばしく思わなかった。ジムにとって日本とは、拒絶と虐待と育児放棄という忘れ去りたい思い出しかない場所だった。過去はすでに葬り去ったことであり、今さら掘り返してほしくなかったのだ。

マットが自分の母親に対面したこと知り、ジムはマットに手紙を送った。自分は自分の人生で幸せだったと。

すべて癒すことはできない、それでもいくぶんか、和らげることはできる

マットは2010年8月から児童養護施設を支援するNPOで働き始めた。これまでにも日本やそのほかの国々の施設をボランティアとして訪れる活動を続けていたが、支援団体に所属して、もっと真剣にこの問題に向き合いたいと願うようになったのだ。そしてLiving Dreamsという非営利団体との恊働事業を担当していたときに、発足間もないNPOみらいの森と出会う。マットは2011年の年末から2012年新年にかけての冬のキャンプに初めて参加した。

キャンプでマットは、4泊5日という限られた期間であってもアウトドア活動が子どもたちに大きなインパクトを与えることを知り感銘を受けた。2日目には子どもたちとキャンプスタッフの間にあった心の壁が取り払われ、強い心のつながりができているのを目の当たりにした。「ついに自分が長く携わりたいと思える団体と出会えたんだ。施設で育つ子どもたちの中に僕の父が見える。父の痛みも彼らの痛みも同じだ。父の孤独も彼らの孤独もここにある。今となっては父の心の痛みを完全に癒すことはできなくても、今ここにいる子どもたちにとって、僕がポジティブな手本になることはできると思うから。」

マットは、持ち前のやんちゃな遊びのセンスや、子どもたちやキャンプスタッフに向けられる惜しみない愛で、キャンプに大きなエネルギーをもたらしてくれている。彼の望みは、子どもたちが心の痛みに向き合い、それぞれの道を見つけて前に進み、夢を実現させていくときに手助けをすることだという。

「幼かった父にも心の痛みを癒す手助けしてくれる『みらいの森』のような団体が存在したら、どんなによかったか。みらいの森では、子どもたちそれぞれが心に抱える苦しみについて次第に語れるようになり、それを克服する瞬間に立ち会える。これは、彼らが将来、真心にあふれる人生を歩んでいくために、必ず通過しなければならない過程なのだと僕は思う。」

Matt Miller at camp

 

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