アンバサダー

アンバサダー紹介

みらいの森では、私たちの活動のミッションに賛同し、子どもたちへ熱いメッセージを伝える方々をアンバサダーとして迎えています。

情熱を持って子どもたちと関わるアンバサダーの方々の種まきが、いつか芽が出、子どもたちの実となり花が咲くことを願いながら、みらいの森は今後もアンバサダーの皆さんと一緒に活動を続けています。

仙石 淳さん

やらないより、やりたい事をやって失敗したって良い。自然の中でおもいっきり身体を動かして遊んだら、また新しい事が見えてくるから。

世界の山を舞台に山岳ガイドとして活躍する仙石淳氏は、中学時代を児童自立支援施設で過ごしました。原因は反社会的行動を繰り返し補導されたことでした。児童自立支援施設は、児童養護施設と同じく、子どもの社会的養護に関わる児童福祉施設です。

その日は小学校の運動会。岐阜県の郊外に暮らしていた仙石氏は、昼間の疲れからぐっすり眠っていたところを、深夜、突然父親にたたき起こされました。子どもながらに、何かただならぬことがあったに違いないと感じたといいます。
「母親が家を出ていった。」
両親はよく夫婦喧嘩をしていましたが、今回はただの夫婦喧嘩ではありません。仙石氏の人生はその日から一変しました。母親がいなくなったのち、ほどなくして父親も仙石氏の前からいなくなったのです。父親は、ほんの時おり帰ってきては、机の上にわずかなお金を置いて、また出て行くというような生活を繰り返していました。

わずか10歳という幼さで、仙石氏は自分と一緒にとり残された弟の面倒をみました。なんとかして二人で生き延びなければなりませんでした。料理や掃除などあらゆる家事をこなし、学校にもきちんと通いました。しかし中学校に入学すると、素行の悪い仲間と遊び歩くようになります。何が正しいのか教えてくれる大人はいませんでした。それまでの苦労、ストレス、そして鬱憤を発散させるかのように深夜まで徘徊し、家に帰ることが少なくなっていきました。
度重なる非行から、13歳でついに補導されます。児童相談所を経て「児童自立支援施設」に入所。厳しい規則に縛られた社会的養護施設、かつて教護院と呼ばれた施設です。ここで仙石氏は更正を目指すこととなりました。

施設では、厳しいルールに縛られながらもさまざまなことを学びました。プログラムにスポーツが盛んに取り入れられていましたが、彼はチームプレーや団体競技にはなじめず、単独競技に興味を示しました。そして、授業で見た1本の映画から冒険家、植村直己氏について知ります。内向的な一面を持ちながらもさまざまな冒険に果敢に挑戦し、日本人として初めてエベレスト登頂を果たした植村氏に、仙石氏は大きな憧れを抱きました。14歳にして、危険と背中合わせの冒険に満ちた登山家を目指すことを決心するのです。

児童自立支援施設の退所をひかえ、仙石氏は自動車整備専門学校を受験し、合格します。ところが、彼の経歴を知った学校側が入学を拒否。中学卒業後の居場所を失ってしまいます。強い憤りと挫折感を感じつつ、実家に戻ることになりましたが、自身のタバコの火の不始末が原因で火事を起こしてしまいます。再び居場所を失った彼は、当時つきあっていた女性と一緒にアパートで暮らし始めました。18歳になるとすぐにこの女性と結婚しますが、あっという間に関係は破綻、離婚することになりました。

離婚後、仙石氏は祖母と弟とともに暮らし始めましたが、ほどなくして事件が起こります。弟が自殺未遂をおこしたのです。弟は父親に引き取られ、再び離ればなれになってしまいました。
仙石氏は登山家になりたいという想いを新たにし、海外への渡航資金を貯めるために必死で働き始めます。目的地は、フランスのシャモニー。ヨーロッパの最高峰、モンブラン登山の拠点の街で、憧れの登山家、植村直己氏が若き日々を過ごした場所でした。

24歳で初めてフランスに渡ります。ホテルの部屋掃除として住む場所と仕事を与えられました。やっと得られた自分の居場所。毎日が充実していました。ところが翌年、日本に一時帰国した仙石氏に悲報が待っていました。仙石氏が日本不在の間に、弟が自殺したのです。深い悲しみと罪悪感に苛まれた末、仙石氏は決意を新たにします。弟が天国で誇りに思っててくれるような人間になろうと―。そしてわずか4日間の日本滞在後、すぐにフランスへと舞い戻りました。

フランスで、仙石氏はとにかく1人で山に登り続けました。単独行動がゆえに、危ない経験も多くしました。あえて危険な登山に没頭することで、家族を失った悲しみと孤独を払拭しようとしていたのです。このころの彼のクライミングスタイルは、「畏れ知らず」を越えて、もはや「無謀」というものでした。ヨーロッパ三大北壁のひとつであるグランド・ジョラスから滑落し、あやうく命を落としかけたこともあります。オフシーズンだったため通りかかる他の登山者がいない絶望的な状況の中で奇跡的に携帯電話がつながり、一命をとりとめたのでした。

この滑落は、仙石氏にとって大きな転機となりました。事故を聞きつけた登山仲間や地元シャモニーの友人たちが次々と彼のもとに駆け付けました。それまで天涯孤独の身を投げ出すように、死を畏れず、むしろ死を嘲るかのように危険な登山を行ってきた仙石氏は、そこで初めて自分が孤独ではないということを知ったのでした。
仙石氏は、現在もクライマーとして精力的に活動を続けています。登山を通じて多くの人々と出会い、人とのつながりをさらに広げています。プロとしてスポンサー企業の協力を得て、さらに心を許し合える友人も増えました。彼の世界は、登山と彼を支える人々の励ましによって、予想もしなかった規模へとさらに広がりを見せています。

みらいの森との出会い

仙石氏は、みらいの森の副理事ジェフと山でたびたび出会うことがありました。ジェフの流暢な日本語と、日本の山々を軽々と制覇していく並外れた体力に感心していました。二人は何度か一緒に山を歩いたことはありましたが、仙石氏が自分自身の過去について語ることはありませんでした。ある晩、共にお酒を飲みながら、ジェフがみらいの森の活動について話し始めたとき、仙石氏の心で何かが動きました。

植村直己氏は偉大な冒険家であるとともに、深い慈愛にあふれている人でした。彼は発達障害のある子どもたちのために、野外学校を作ることを夢見ていました。残念ながら、マッキンリーでの不慮の事故により、彼の夢が叶えられることはありませんでしたが、まさに憧れだった植村氏のように、仙石氏もまた障害や問題を抱える子どもたちのために、自分も何かしたいと考えていたのです。ただ、それが叶えられるのはずっと先のことだと思っていました。ジェフとの出会いはまさに運命でした。いま、「その時」来た―そんな瞬間でした。

仙石氏は「石の上にも三年、継続は力なり」ということわざに触れました。「僕はお金がなくて、ガリガリにやせていた。外国語も話せず、ただ純粋に山が好きということ以外は何もなかった。」これまでの仙石氏の人生の道のりは険しく、そして長いものでしたが、彼はそれを乗り越え、新しい夢を見つけることができたのでした。だからこそ、今苦しい局面にある子どもたちも、いつかは自分と同じようにそれを乗り越えることができると信じている。あきらめずに努力を続け、自分自身の「山」の制覇を目指してほしい。そんな想いを仙石氏は胸に抱いています。

「心から強く欲すれば、誰よりも強い願望があるのなら、それは達成できる。辛抱強く頑張っていれば、誰かが気づいてくれる。誰かがあなたに手をさしのべてくれる。僕の周囲の人々がそうであったように。」

今の仙石氏は1人ではありません。憧れの地、フランスのシャモニーで日本人女性と出会い、一緒にモンブラン登頂を目指すうち互いに惹かれあい結婚。その年に目標であったモンブランに2人で無事登頂を果たしました。今は子供にも恵まれ、次は家族そろってモンブラン登頂することが彼の夢です。

坂本 博之さん

一生懸命と言うと疲れるから。瞬間でいい。今この瞬間を『一瞬懸命』に生きていこう。

「幸せだったとき、悲しかったとき、そして腹が立ったときのことを思い起こして、その気持ちすべてをこのパンチに込めるんだ。」

坂本博之氏が、ボクシングにあこがれる子どもたちに向き合い語りかけます。そして、「さかもっちゃん」—子どもたちは親しみを込めて彼をそう呼びますーが構えるミットに、まだ柔らかな自らの拳を打ち込みます。

元プロボクサーで、日本および東洋太平洋ライト級チャンピオンでもある坂本博之氏。彼は、内に込めた感情を、ボクシングに転換する方法を知っている人です。彼自身も児童養護施設で育ちました。そんな彼が自身の体験を生かして行っている活動が、児童養護施設への慰問活動です。

1970年福岡に生まれた坂本氏。両親は、彼がまだ幼い時に離婚。その後は母と暮らしていましたが、事情があり6歳の時に親戚宅に預けられました。しかしそこでは食事がろくに与えられず、食べられるのは学校の給食だけ。給食のない土日は、空腹を満たすため弟と一緒に川で捕えたザリガニを食べたこともたびたびあったといいます。そしてついにある日、弟が栄養失調で倒れ、彼自身も拒食症に陥ってしまいます。これをきっかけに、児童相談所の職員が彼の服がいつも同じであること、学校で使用する文具などを持っていないこと、いつも空腹で病気がちであることに気づき、児童養護施設に預けられることとなりました。

児童養護施設では、毎日3度の食事が与えられ、彼は初めて安心感を得ることができました。声を出して笑ったり、ほほえんだりすることを覚えました。そして、食堂のテレビで初めてボクシングの試合を見た時、鮮烈な衝撃を受けます。将来、ボクシングのリングに立とうと決心しました。

小学校からボクシングの練習を始めたものの、金銭的な事情からきちんとしたボクシングジムに通うことや道具をそろえることはできませんでした。その代わり、水を入れたジョッキや岩などをウェイト替わりにして練習を重ねました。本格的にトレーニングを受けられるようになったのは16歳になってからのことです。そして90年代は、地元で、国内で、そしてついには国際試合で実績を挙げるまでになりました。全盛期はボクサーとしての彼の名を知らない者はいないほどでした。

そんな名声とは裏腹に、坂本氏は決して自身のルーツを忘れることはありませんでした。20歳のころから、自分の育った児童養護施設やそのほかの施設でボランティア活動を行い、自らの試合を施設で育つ子どもたちのために捧げてきました。箱いっぱいに詰めたお菓子を施設に持って行ったり、コンサートやファミリーレストランに子どもたちを連れ出したり。こんなシンプルな活動だけで、そして良き相談相手になるだけで、子どもたちのたくさんの笑顔と幸せな姿を見ることができました。「私たち大人はこの子どもたちのために、もっとできることがあるはずだ。」坂本氏はそう訴えます。

坂本氏は現在、東京の西日暮里にSRSボクシングジムを構え、練習生たちの指導にあたっています。ここでは、ボクシングの厳しい練習に打ち込むことで、練習生自身の夢を見つける手助けをしています。私たちが取材に訪れた際には、鹿児島の児童養護施設で育つ10代の女の子がトレーニングを受けていました。彼女は、坂本氏の家族とともに氏の自宅に一週間滞在しながらジムに通っているのだそうです。一方で、背中に入れ墨を背負った元暴力団員の青年にも出会いました。ボクシングに人生の救いを見出す前は、反社会的な10代を過ごしていたといいます。

みらいの森との関わり

2015年と2016年の2年間、坂本氏はみらいの森のサマーキャンプを訪れました。キャンプに参加している児童養護施設の子どもたちに自身の生い立ちを話し、エールを送りました。そして、ボクシングのデモンストレーションやミニレッスンでグローブをつけてみたい人を募ると、ほとんどの子どもたちが進んで名乗りを上げました。

このような形で子どもたちと関わっていると、言葉はなくても気持ちでつながることができるのだ、と坂本氏は言います。「心と心のつながり。大人とか子どもとかは関係ない。心対心、人間対人間なんだ。みらいの森のキャンプを訪れたとき、改めてそう感じた。」

坂本氏は、子どもたちに夢を追い続けてほしいと願います。お金がないから、道具がないから、夢をあきらめなければならないということはないと。「君自身が自分の夢と向き合う強い意志があるのかどうか。他人にそれを叶えてもらおうなんて思うな。自分で叶えるんだ。一歩、半歩、それよりも小っちゃくてもいい。情熱を持って夢に少しでも近づいていくことだ。」

まだ夢なんて見つかっていない、という子どもたちに対しては、あきらめずに探し続けろと言う。「毎日やるべきことをやる。何気ない日常生活のなかに、そして日々出会う人びとの中に君が夢を見つけるヒントが必ずある。」

「もし君が情熱に導かれて、一生懸命努力をしていたら、必ず周囲に応援してくれる人が現れる。今、とにかく始めることだ。明日じゃない、来週でもない。今だ。」

マット・ミラーさん

私たち一人一人には、周りの人々へ夢を与え、この世界を良くしていく大きな力があるんだ。

話は二世代前までさかのぼります。長崎県佐世保市に暮らす若い日本人女性が、アメリカ人兵士と出会い、恋に落ちました。やがて男性はアメリカへ帰国し、女性はまもなくその男性の子を出産。こうして1947年、ジム・ミラーが誕生しました。

当時は、シングルマザーは珍しく、ましてやアメリカ兵士の子どもに対する世間の偏見は根強い時代でした。日本の敗戦間もない頃のことですから、無理もありません。生活は困窮し、女性は一度別の男性と結婚しましたが、その夫は彼女に暴力をふるい、血のつながりのない幼いジムにも辛く当たりました。羞恥と恐怖と生活苦に耐えられず、女性はやむなくジムを佐世保市の孤児院に預けます。孤児となったジムは、1953年から1957年までの間その孤児院で育ちました。その後、アメリカ人夫婦に養子として引き取られ、オレゴン州スキャプーゼへと渡り、その後、二度と日本に戻ることはありませんでした。

大人になったジムは、アメリカで結婚し家庭を持ちました。ちょうど息子のマットが17歳の高校生になったころ、ある人が訪ねてきました。ジムが幼いころ、孤児院でジムの世話をしていたミツトミ エイコという日本人女性です。彼女の訪問をきっかけに、ジムは再び自分の過去に向き合うことになります。実はミツトミ氏とジムは長年連絡を取り合っていて、息子のマットが生後3ヶ月のときにも一度ミツトミ氏はジムを訪ねてきたのですが、幼いマットには当然その記憶はありませんでした。

ミツトミ氏の訪問は、多感な年頃のマットに多くの疑問を抱かせました。なぜ二人は過去について語ろうとしないのか。なぜ自分たちにゆかりのある日本について何も知らないのか。あいにく、ジムにとって、日本には拒絶と虐待と育児放棄の思い出しかありませんでした。

マットは自分の中で沸き起こった疑問を何年か胸に抱き続けました。そして2005年、ついに行動を起こすことにしました。「自分の日本へのルーツについて考えずにいられなかった。父の過去が、今の父にいかに大きな影響を与え、それがどのようにわたしたち家族にも反映されているのか。」マットはミツトミ氏に手紙を書き、訪問したいと伝えました。ミツトミ氏はそれに応え、その年の夏、マットは初めて長崎県佐世保市を訪れることとなりました。ミツトミ氏はもと孤児院があった場所にマットを案内し、また彼を父ジムのことを知る人々に紹介しました。

「日本から帰国するとき、自分の心はまだ日本にあった。すっかり魅せられてしまっていた。日本という国に、日本の自然の美しさに、日本で暮らす人々に。電車で出会う見ず知らずの人々にすら「あら、あなたジムの息子なの!」と言われるたび、日本に突然自分の家族ができたような気がして、愛おしく感じた。」

1年後、マットはJETプログラムを通じて再び来日します。英語のアシスタントティーチャーとして群馬に赴任しました。2年後、マットは父ジムにまつわる調査をしようと決意します。できれば実の祖母も見つけ出したい―。マットは佐世保市に引っ越し、ミツトミ氏のもとで暮らし始める。そのころには、マットにとってミツトミ氏はすでに家族同然の存在でした。彼女の古い写真を整理し、50年に渡りミツトミ氏が携わってきた孤児院での活動を、本にまとめるのを手伝いました。マットは2010年までに調査を完了し、東京に引っ越すつもりでいました。その前に、父の実母を見つけるために協力してほしいと、市役所を訪れることにしました。

2日後、市役所から連絡が来て、祖母に関わる書類を閲覧するためジムは再び市役所を訪れました。そして1時間もしないうちに、探していた情報は見つかりました。祖母は生きていて、しかも市役所からわずか25分のところで暮らしていたのでした。早速電話をしてみたものの、いたずら電話か詐欺の電話だと思われて一方的に切られてしまいました。

ところが10分後、祖母から市役所に電話がかかってきました。いたずら電話ではなかったかもしれないと思ったのでした。もしかしたら本当に、ジムの息子である自分の孫が、日本で自分を捜しているのではないか―。

その週の日曜日、マットは祖母の家を訪ね、当時の事情を聴くことができました。祖母はマットにこう語ります。息子ジムにはなんとしても生き延びてほしかった。ジムには少しでも楽な暮らしをさせたかった。それでも、我が子を手放さなければならなかったことは、一生胸に抱える大きな痛みとなった。今目の前にいる孫のマットの存在は、まさに息子ジムが、彼の人生を立派に生きてきたことの証だでした。「僕を通じて、祖母の心の重荷はついにとりのぞかれたんだよ。」マットはそう回想します。

父ジムは初め、マットが日本へ行ったことを喜ばしくは思いませんでした。彼にとって、過去はすでに葬り去ったことであり、今さら掘り返してほしくなかったのです。しかし数週間後、父は手紙を送ってきました。彼の人生は幸せだったと。

「すべて癒すことはできない、それでもいくぶんか、和らげることはできる」

マットはその年の8月から児童養護施設を支援するNPOで熱心に働き始めます。これまでにも日本やそのほかの国々の児童養護施設を、ボランティアとして訪れる活動を続けてきました。しかし支援団体に所属することで、もっと真剣にこの問題に向き合いたいと願うようになります。そしてLiving Dreamsという非営利団体と共に働いているとき、発足間もないみらいの森と出会いました。マットは2011年の年末から2012年新年にかけての冬のキャンプに参加しました。

マットはそこでアウトドア活動が4泊5日という限られた期間でも子どもたちに大きなインパクトを与えることに感銘を受けました。2日目には子どもたちとキャンプスタッフとの間の心の壁が取り払われて、それどころか強い心のつながりができているのです。「ついに自分が長く携わりたいと思える団体と出会えた。施設で育つ子どもたちの中に僕の父が見える。父の痛みも彼らの痛みも同じだ。父の孤独も彼らの孤独もここにある。父の心の痛みを完全に癒すことはできなくても、今ここにいる子どもたちにとって、僕がポジティブな手本になることはできると思うから。」

マットは、持ち前のやんちゃな遊びのセンスや、子どもたちやキャンプスタッフに向けられる惜しみない愛などで、キャンプに莫大なエネルギーをもたらしてくれています。彼の望みは、子どもたちが心の痛みに向き合い、それぞれの道を見つけ前に進み、夢を実現させていくときに手助けをすることだといいます。

「父にも、彼の心の痛みを癒す手助けしてくれるような、みらいの森のような団体が当時存在したら、どんなによかったかと思う。みらいの森では、子どもたちがそれぞれ心に抱える苦しみについて、次第に語れるようになり、それを克服する瞬間に立ち会うことができる。これは、彼らが将来真心にあふれる人生を歩んでいくために、必ず通過しなければならない過程なのだと僕は思う。」

三浦 豪太さん

アウトドアには、僕が思っているよりもずっと多くの可能性が秘められている。「みらいの森」はまさに未来の可能性だ。

「三浦ファミリー」は、豪太氏の父である三浦雄一郎氏をはじめ、ギネスやオリンピックの記録と共に華々しく語られる言わずと知れた登山家、そしてスキーヤー一家です。

三浦家の次男である豪太氏は、世界最年少の11歳でアフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ(5895m)を登頂。小学校時代から数々の海外遠征を経て、フリースタイルスキーやモーグルでオリンピックの舞台に活躍。世界最高峰エベレスト(8848m)へは2度登頂しています。

みらいの森の副理事ジェフが豪太氏の元を訪れたのは2015年春のことです。アウトドアの力を誰よりも知る豪太氏に、ご挨拶を兼ねてアドバイスを請うために面会の約束を取り付けました。ジェフの口から児童養護施設を取り巻く問題、みらいの森のミッション、児童養護施設や社会的養護を取り巻く課題や子どもたちの複雑な事情を説明するうちに、豪太氏の想いが言葉になってあふれてきました。
「今年のみらいの森キャンプを見学したい。」

過密スケジュールの合間をぬって、埼玉県秩父市で行われたみらいの森サマーキャンプへ1泊2日で参加してくれました。
彼がこのキャンプで見たのは、明るく勢いのあるスタッフ、ゲームのように工夫された炊事や掃除の時間、そして、身の回りにあふれる英語を楽しく使うチャンス。子どもたちから親しみを込めて「変なおじさん」とあだ名が付けられた豪太氏。彼の人柄が子どもたちとの距離を縮めていきました。
森の中で目隠しをして目当ての木を探すゲーム「Meet a tree」では、リーダー実習生としてキャンプ運営を手伝う高校生とチームを組みました。目隠しのまま歩くので、チームメイトを信頼することが前提となるこのゲームで、豪太氏のフレンドリーさを逆手にとった高校生が、何倍にもコースを難しく工夫して豪太氏をひっかける場面もありました。
夕食後には、豪太氏にエベレストでの体験を伝えてもらう時間を設けました。子どもたちは熱心に耳を傾け、実際の山の上で歩くスピードがデモンストレーションされた時には、まるでエベレストが目の前にあるかのようにみんな息を飲みました。
ハラハラドキドキな話の後は、キャンプソングの練習。ここでももちろん、英語の歌詞とリズムに乗せて変なおじさん節が登場!子どもたちはお腹を抱えて笑っていました。

次の日は朝から1日かけたハイキング。英語のフレーズを一緒に楽しく使う豪太氏と、子どもたちもすっかり打ち解けた様子。道中では森のくまさんの替え歌を歌うなど、子どもたちだけでなくスタッフへも笑顔を提供。荷物が重いと足が進まない低学年の子どもたちを明るく励まして背中を押してくれました。

ポジティブなロールモデルとの関わりが限られている児童養護施設の子どもたちですが、豪太氏との関わりは、彼らにすばらしい影響をもたらしていました。子どもたちにとって、人生をかけて何かに取り組む、熱い想いの大切さを知るきっかけとなりました。

みらいの森キャンプ訪問を終えて:
「みらいの森キャンプを見に、僕が埼玉にある野外センターについた時、子どもたちはキャッチボールをしたり、フリスビーをしたりとそれぞれ遊んでいた。聞いてみると彼らは今、ちょうどダッチオーブンに火を掛けたばかりで食事ができあがるまで遊んでいるという。
しばらくすると昼食の号令がかかる。すべて英語だ。ここのリーダーはすべて英語を流暢に話す事ができる。盛り上げ方も陽気で楽しくて、まるでアメリカの子ども向け番組『セサミストリート』の中にでもいるようだ。

僕たちは、子どもたちにとって突然の来訪者。できたてのダッチのオーブンで焼かれた鶏はとてもおいしいが、子どもたちは僕たちとどう接していいのか分からないようだ。僕たちも、施設の子どもたちであるということで、まだ彼らとの距離を計り兼ねていた。
しかし、そこはイングリッシュキャンプ!リーダーたちは半ば強引に僕たちをアクテビティーの中に取り入れてくれた。森の中のゲームや夜のゲーム。そんな事をしているうちに僕にはいつの間にか「変なおじさん」というあだ名が付いていた。
翌日のハイキング。みんなで山を登り歌や山の話しをしているうちに、もう何日も一緒に過ごしているかの様な気持ちになる。僕たちの視察はそこで終わり、後ろ髪を引かれながらその場を後にした時、彼らともっと一緒に過ごしたい気持ちでいっぱいになった。」

これまで児童養護施設や社会的養護と直接関わる経験がなかった豪太氏ですが、自然の力、アウトドアが持つ可能性を信じる仲間であることには変わりありません。
「アウトドアを通じてそれが彼らの思い出や経験になるのなら、これからも一緒に携わりたいと思った。」